天草・島原一揆の規模や最後が日本史上稀なレベルの件

こんにちわ

STEDです

 

天草一揆は学生時代でも

学ぶほど有名ですが

詳細まで知っている人は

少ないことでしょう

 

農民が一揆を起こし

島原城に攻め入り

原城に立て籠もり戦った出来事です

 

何が凄いかというと

・キリスト教徒による反乱

・反乱の規模

・戦闘能力が高かった

・戦が長引いた

・討伐側の幕府軍の規模

 

まず地域的に外国の文化が

入ってきやすく日本では珍しい風土を持っていました

  

日本で唯一貿易が許された

長崎という土地では

異文化との交流が盛んで

宗教もその一つでした

 

よってキリシタンが多く存在しております

今でもその名残は多く残っており

建物や宗教も異文化が混ざり合っているので

街並みを見たら驚くことでしょう

    

当時の日本ではキリスト教が弾圧されていた時代ですが

ここまで大きい宗教関連の戦いは珍しいです

  

反乱の規模は37000人

島原半島南側ではすべての村が戦いに参加しており

女、子供も含めた数なのか不明ですが

村全体で反乱しているので戦闘員には数えられずとも

統率は非常に難しいだろうと予測します

  

当時は浪人の参加も多かったようで

島原城の攻城戦では敗れましたが

他の戦いでは連勝し大将級も打ち取っており

戦闘力は非常に高かったです

 

武器や弾薬の確保や練度や士気を

どうやって運営していたのか気になりますが

宗教による一致団結は相当な力だったのでしょう

 

反乱も半年間続き

規模が37000人もいるので

その間の運営も大変だったと感じますし

最後まで抵抗出来た士気を保つのも

宗教が関連しているのだろうと

感じてしまうのは私だけでしょうか

 

討伐側の幕府軍は総勢12万人と

並々ならぬ覚悟で挑んでおり

結果は大虐殺と一人残らず打ち取っております

 

キリスト教への弾圧の激しさと

同様に宗教に対しての恐れを感じさせます

一神教により混乱したところを

列強に支配させまいと幕府側は

決死の行動だったのでしょう

 

その後はポルトガルとの国交を断絶し

オランダへと切り替え出島による貿易で

徹底した鎖国を貫きます

 

それを実行させた圧倒的な徳川幕府の力と

九州地方による運営とが嚙み合って

時代は作られていきました

 

教訓として

・問題は都度発生するが対処が肝心

・宗教による団結力は想像を超える

 

ということで本日のブログは終ります

それではまた明日さようなら

 

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