体力の差が子育ての世界を変える
──“遊びきれる大人”が生む、子どもの安心と成長──
子育ての現場において、意外と語られないが確実に存在する要素がある。
それが 「大人の体力差」 だ。
そして、これは単なる体力勝負の話ではなく、子どもの世界観を大きく左右する“環境そのもの”になる。
私は親友の子どもたちと遊ぶと、必ずと言っていいほど全力で駆け回る。竹林での作業後でも公園で鬼ごっこをしても、息が切れるどころかむしろ楽しくて仕方がない。子どもから見れば、まるで“無限の体力を持つ大人”のように映るのだろう。
一方で、今日一緒に過ごした親友は、明らかに体力が落ちていた。仕事や育児の疲れが蓄積し、子どもと遊ぶ余裕があまりない。それでも必死に笑顔をつくり、子どもたちを見守っていた。
この光景を見て、改めて思った。
大人の体力は、子育ての世界を大きく変える。
■ 体力がある父親は、子どもに“別次元の楽しさ”を提供できる
体力のある大人と遊ぶと、子どもは一気にスイッチが入る。
特に男の子は顕著だ。
- 走り回るスピード
- 高いところへのサポート
- 新しい遊びを即興で作る力
- 危険の回避判断
これらはすべて、体力という土台の上に成り立つ。
親友の子どもたちが、私に会うと毎回テンションが爆上がりになる理由もここにある。
「この人となら全力で遊べる」と本能で察しているのだ。
子どもにとって、
全力で遊べる大人の存在は“宝物” だ。
それは成長にも深く影響する。
■ 体力の差は、父親同士の“役割の違い”も生む
親友を見ていて気づいたことがある。
体力がないことを責める気持ちは一切ないし、むしろ尊敬している。
それでも、彼の子どもたちが私に全力で懐く理由は明白だ。
“今の時期”の子どもたちは、体力のある大人を求める。
これは生物的な本能に近い。
親としての愛情の深さとは別の軸で、
「この人となら思い切り身体を動かせる」
という判断で大人を選ぶのだ。
そして親友は、体力の分、
- 子どもの落ち着きを見守る
- 心のケアに寄り添う
- 家庭の安定を整える
などの役割をより深く担っている。
体力の差は、
家庭内の役割を自然に分担する“見えない力” になっている。
■ 我が子は父親の価値に気づくのが遅い
親友の子どもたちが私にすぐ懐く一方、
我が子である長女と次女は、当たり前のように私と遊ぶ。
これは良いことだ。
なぜなら、私は日常の一部であり、
もはや特別ではなく“基盤”だから。
しかし将来的に、彼女たちは必ず気づく。
「父は、自分たちの世界を全力で支えてくれていた」と。
父親という存在は、
近すぎるがゆえに価値が見えないだけ なのだ。
■ 体力を保つ父親は、子どもの“未来の記憶”を作る
今日、親友の子どもたちと遊んだ時間は、確実に彼らの記憶に残るだろう。
太巻きを食べ、公園で走り回り、笑い声を響かせた。
子どもの記憶というものは大人が思うより鮮明で、
人生の基盤のどこかに必ず残っていく。
だからこそ私は思う。
体力は、子育ての武器であり、愛情の形であり、未来への投資だ。
体力のある大人は、
子どもの世界を一段階広げられる。
そして私は、この体力がまだまだ続くと感じている。
だからこそ、彼女たちの未来の思い出を、全力で作り続けたい。
■ 体力は、親が子どもに贈れる“最高クラスの教育資源”
スマホより、習い事より、学校よりも──
父親の「体力」は、子どもに最も直接的で強い影響を与える。
それは、
- 自信
- 安心感
- 好奇心
- 行動力
- 生命力
これらすべてを支える基盤になる。
そしてその体力を武器にして、
私はこれからも子どもたちの世界を支え、広げていく。